Timeless Sleep

 

 

 

 

　崩れ果てた街でも、愛しい恋人と寄り添いながら見渡せば、その物悲しさを美しく思うこともできる。瓦礫が微かに跳ね返す光の粒が、砂と混ざり合って吹き上げられる。

　小さな破片を踏み敷きながら、撫子は空を仰いだ。こうしてふたりで外を出歩けるのは、人気の少ない時間帯だけだった。惜しむように歩いて、他愛のない話をしていた。

 

「――懐かしいんだか、なんなんだか。そんなかんじですね」

「…そうね」

 

　ふと、膝が傾いだ。足場の悪さに息を呑んで、慌てて壁に手をついた。

　うつむいた首筋に、軋むような音がふりかかる。あぶないと思いながらそれでどうするのかまでは心に映らない。ざらりとした灰を注がれて背があわ立つ。その時にはもう、乱雑な力強さで引き寄せられている。

 

「――ッ…！」

 

　息を呑んだのは自分ではない。ただ目を瞠るよりほかはない。

　がらり、と不快な音を聞きながら円に捕らえられる。肌に馴染む腕に竦められてそこはひどく温かだったけれど、撫子の思考はかつてない容易さで冷たく、弾け落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

「――はあ。退屈ですね」

「……」

「何かしてください」

 

　無茶振りにも程がある円に絶句しながら、それでも離れずに撫子は椅子に腰掛けている。

　先程まで片手でデータを打ち込んでいた円だったが、撫子に叱られて時間をもてあましたように首を傾けている。

　昨夜、彼は降りかかった瓦礫に打たれた。恋人を護ってのことだ。だが当たりどころが悪く傷を負った彼は一両日中は要安静のはずなのだが、周囲の心配をよそにしれっとしたものだ。

 

「なにかって、なんなの。わたしに芸でもしろっていうの？」

「できるならどうぞ」

「できるわけないでしょ」

「でしょうね。貴女に一番求めるべきでない技能ですし」

「誰にも求められてないからいいのよ…っ」

 

　腕は痛まないが『要安静』の状況は彼にとっては非常にストレスの溜まるものらしく、ふたりは朝からこの調子であった。

 

「……もうっ。なんでそんなに元気なの」

「元気に決まってるでしょ。政府で雑用係やらされてた人間が骨の一本や二本で参っててどうすんですか？　本当なら今すぐにでも央を手伝いたいくらいですよ」

「駄目」

「平気ですよ」

「だめ！！」

「うるさいですねわかりましたよ、ここにいればいいんでしょ」

「そうして！」

「はあ…」

　口煩さがいつもの五割増の撫子に、円はあてつけるように息をつく。唇の端で笑うと、目をすがめるように眺めやる。

「…そんなにぼくのことが心配なんですか。いえ、わかってますけど。心配でどうしようもないからさっきからぼくから一歩も離れない訳でしょう？」

「……」

　ややあって、撫子が返す。

「別にそういうわけじゃないわ」

「そうですか」

「円ってお医者様の言うこと聞きそうにないんだもの」

「へえ」

「…なんなのよもう……」

　見澄ますような眼差しで笑う円から、撫子はぷいと顔を背けて作りつけの木造りの棚に手を伸べる。中は程よく冷えている。片手に乗るほどのちいさな袋を取り出し、内側からつるりと赤いさくらんぼを取り出した。いまの時勢ではそう気軽には食べられないものだ。

 

「お見舞いにって、さっき頂いたのよ。食べるなら大人しくしてて」

「…へー、久しぶりに見ましたね」

　片眉を上げるようにして言う撫子にヘッドボードに上背をもたせ掛けながら円は、どことなく含みありげな間を置く。

「食べますよ」

 

　頷いた円に微笑んで、撫子は水で洗って用意を整えると皿に盛り付けて運ぶ。

　ここは性格の出るところなのか、さして数もないさくらんぼが几帳面に皿で整列している。ふっと笑いを落としながら眺める円に小首を傾げて、枕元の小さな椅子に腰掛ける。両手にくるむようにして携えていた皿を、「はい」と差し出す。だが彼は微動だにしないまま見返す。

 

「なによ、食べないの？」

「いいえ」

　それでも受け取ろうとはせずに、円は撫子を見返す。

「――でも、ちょっと利き手を骨折してまして。ぼくは不自由ですから」

　笑んだ言葉にどうしようもなく不穏な気配を感じ、撫子が動きを止める。

「恋人らしく食べさせてくださいよ」

 

　摘まんでひょいと差し出した撫子に、彼は口を開かない。なんとなく予想していた反応に黙って引っ込めながら、面白げな瞳をくれている円を見返す。

　円は片膝を立てるようにしながら、怪我人らしさの欠片もないさまで言う。

 

「介抱、してくれるんじゃないんですか」

 

　頬を染めてまなじりを吊り上げる撫子に、円が愉しげに笑いを落とす。唇を噛み締める。

　常なら、応酬を重ねているところだ。円もそのつもりだろう。本気でない訳ではないけれど、彼はこういうことを言ってただ撫子の反応を見るところがある。

　思いながらふと果実に手を伸ばす。それは昨日から胸に張り付いているつめたいものと折り合いをつけたがる気持ちで。円は何事もなかったような仕草だけれど、撫子はけして平静でいるわけではない。砕けた思考は、そう簡単にはきれいな形に戻してやれない。

 

「――…わかったわよ」

 

　しぼりだした台詞にさっと頬が焼かれるのがわかる。円が目を瞬かせて見かえす。

 

「…は？　どうしたんですか？　いつもなら円最低だのなんだの」

「なによ」

　言いながら、撫子は華奢な指で摘まんだ果実を口に含んだ。

「円が言い出したんじゃない」

 

　らしくないことをと自分でも思いながらそれでも円に手を添えて、傾ぐ体を支えて唇を寄せる。肩口から零れる黒髪が厚みのある胸元に幕のようにかかる。ふんわりとしたマットレスに膝を沈めて、恋人の唇をふさいだ。ぬくもりは微かな逡巡のあとに容易に撫子を受けとめ、返すように撫でられる。いたわりあうような触れ合いに翻弄されるまえに、ためらいがちに頬に手を添えると吐息をついてつるりとした果実を与えた。生々しい熱に胸が締め付けられて、ちいさな安堵を手に入れる。

　すいと引こうとしたけれど後ろ頭を捕らえられる。ちいさく濡れた音がする。どちらが果実の甘みを咀嚼したのかわからなくなるような深い口づけを施されたあと、かすかに熱をもった息をまじらせて円が苦笑する、そのさまを目を細めて見届けた。

 

「…これで、大人しくしててくれるんでしょ？」

 

　半分嘘だった。怪我をしている彼に、それでも触れたかったという気持ちがある。

　見抜くわけではないだろうが、円は撫子の腰を支えながら赤みのさした頬をなぞった。

 

「――勿論そうしますけど。甲斐甲斐しすぎて、ちょっと不気味なんですが？」

「ひどいわね…もう二度としないわよ」

 

　片手で抱きこまれながら問われて、撫子は目を細める。その場所はとても強くて幸いに溢れているけれど、だからこそ昨日の恐怖を思い出させる。脳を痺れさせるように、一瞬で駆け抜けたもの。

 

「昨日のことは悪かったですよ」

「違うわ」

　怒ったように語尾があがる。

「分からないの？」

　共有している熱を噛みしめるような声に、円はかすかに眉を寄せる。

「助けてくれてありがとう。でももうあんなこと、しないで」

 

　叱りつけるように言ったつもりの言葉は、思いのほか弱々しく肌の合間におちる。

 

「――いやよ、あんなの。もっと酷いことになってたらどうするの。あんなに怖かったの、生まれてはじめてだわ。どうにかなりそうだった」

 

　そのことを円に背負わせるつもりなどかけらも無いけれど、本来の時空にあった全ての可能性を捨て去ってでもここで生きることを選んだのはただ、この染み入るような温度の愛おしさを手放すことが耐えられなかったからだ。

 

「子供の精神で壊れた世界に放り出された貴女が、そんなこと言うんですか」

 

　よっぽどぼくのこと好きなんですね。

　からかうだけではない声で落としながら、円が唇で撫子の輪郭を撫でていく。

 

「悪い？」

 

　すねたような声で返せば、円がくすりと笑った。
 

 

 

 

 

 

 

 

　けれど、彼女には分からないだろう。

　かすかに震えるようにして触れてくる恋人の指先を、長い時間をかけて温めてやりながら、円は胸を塞がれる思いに小さく笑む。

 

「ここ、座ったらどうです？」

 

　甘えてくるくせに円の腕を気遣って無理のある体勢をとっている撫子を引きこんで、肩を抱きよせると円はこめかみに唇を寄せた。ひたすらに己の体温を教えあうような緩慢な触れ合いを幾重にもかさねて、どれくらいの時間が経ったのか。

　若葉のような清潔な香りは撫子のものだが、己の香りが染みついてしまえばいいものをと丹念に掌を触れさせる。密に触れていれば、腹の底にくすぶるような熱がこみ上げもするが、今はそれ以上に恥ずかしげに何かを確かめようとする華奢な手を、いつまででも甘やかしていたかった。

 

「…今日はやけに素直なんですね。いつもそうしてくださいよ」

「今日だけよ、こんなの」

 

　そもそも円の経験を踏まえれば、あの程度のことで腕の骨を折っているなど笑い話にもなりはしない。己のみっともなさに苦笑も出ない。

　何も考えていなかった。平静でいられなかった。

　どうにかなりそうだったと撫子は言った。だが何かあって気が触れるのは恐らく円のほうだ。共にある時間が重なるごとに、赤子のように弱くなる。そのくせそうさせるものが傷つけられることを思えば、自分でもそら恐ろしい程の憤怒が描けるけれど、それも依存や執着を孕んだ脆い力だ。だが何よりも恐ろしいのは、そうしてほころびていく自分を心の底から厭わしくは思っていないことだろう。かつての自分は、ためらいながら示される汚れのない情にどうやって応えてやればいいのかなど判らなかったのだからと、そっと、衣服に絡む手を掴む。

 

「ちょっと喜ばせすぎですよ、貴女」

　胸に頬を寄せたまま、眉を寄せるように見上げてくる瞳を見下ろす。

「あんまり調子に乗らせると、今度は粉砕骨折でもして帰ってきますよ」

「…あなた人の話聞いてるの」

「ええまあ。でも怪我をするとこんな楽しいことがあるみたいですから」

「最低だわ…」

 

　呆れかえったような声が落ちる。

 

「こんなの今日だけって言ってるでしょう」

 

　突き放すような言葉を口にしながら撫子の声は穏やかで、胸に添えられた手も離れていこうとはしない。抜けるように白いその手を見下ろしながら、けれどどれだけ言われたところで自分はまた同じことをするだろうと円は思う。

 

　そこに全てがある。円を狂わせ、戒め、幸いを与えるものは全てその場所に内包されている。護るといえば聞こえはいいがそれはどこか独りよがりで後ろ暗い思いだ。それでもどんなことをしてでも髪の一筋でさえ傷つくことのないようにと、円は深い傷痕のような胸狂おしさを抱えながらやわらな体を抱き寄せ、痛みの内で長い時を過ごした。

 

 

 

 

【幸福な病室】